“台湾パイナップル”が伝えたのは、“与える”行為の重要さ。

2021/09/07

林佳慶さん
BNI S1
(東京港中央)
カテゴリー:台湾ビジネスサポート

1988年東京都文京区生まれ。中学は台湾で、高校・大学はアメリカで学び、父をはじめとした友人が出資している外国人向けの不動産会社に就職。2018年に代表取締役に、翌年に社名を変更して『株式会社KAKEI』とする。BNIは2018年に入会。

台湾パイナップルをメンバーが救った

今ではスーパーでよく見かけるようになった台湾産パイナップル。この「台湾パイナップル」の日本への輸入に、BNIメンバーのグローバルネットワークが一役買っていることはあまり知られていない。

中国当局が2021年3月1日からの台湾パイナップルの輸入禁止を通達したのは実施の3日前だった。中台対立を背景とした中国政府による経済制裁の一種と考えられている。台湾パイナップルの輸出先の97%が中国であっただけに、生産農家は窮地に陥り、諸外国で支援の動きが始まった。

BNI S1の林佳さんは、台湾の生産農家のBNIメンバーが窮状に陥っていることを知り、このニュースをいち早く日本国内のBNIメンバーに伝えた。すると、そのうちの一人から「大阪の貿易業者を知っているから繋いでみる」との声が。そして、禁輸措置発表後初めて、台湾パイナップルの日本への輸入が実現した。行き場を失っていた2コンテナ分の台湾パイナップルが大阪の港に到着し、継続的に輸入することも決まった。

このストーリーはグローバルビジネスの成功例としての話ではない。BNIが実践している“ネットワーキング(人脈構築)”の賜物が仲間を救った、という話だ。単純に同じBNIメンバーだから、ではなく、これまで互いの国のメンバーが人脈の紹介をしようと動いているのを知っていたから、この困ったときに「何か手伝えることはないですか?」と、日本国内のメンバーが動いたのだ。台湾のパイナップル業者のメンバーのために台湾の人たちが動いたのは、そのメンバーが台湾の中でも高い貢献をしていたからだ。そして両国を繋いだのは、日本と台湾の間にルーツを持つ林さんの動きがあったからだ。

自分の可能性を閉じない13歳の決意

両親は台湾人。東京で生まれても、台湾人というアイデンティティは強く持っていた。だから中学生になったら台湾に渡ると決めていた。「といっても、躾の厳しい両親から離れたい、という思いも強かったんですが」。学校では日本語、家庭では台湾語、だから言葉の壁はない、はずだった。

しかし、台湾の中学校で使っていたのは北京語だったのだ。同じようにみえてもまったく違う。大いなる誤算。授業についていけない。日本での成績が良かった自分はもはやいない。かといって来てしまった以上、簡単に帰るわけにはいかない。「厳しかったんですが、離れてみて親の愛情がわかりました」。ただ、この13歳のときの境遇が人格を、そしてこの後の人生を決めていった。自分の可能性を決めつけない、卑下しない、ということだ。「別の人から見たら輝いているところがあるんです。だから自分の可能性を自分でブロックしない、そう決めて生きてきました」。

自分の強みを、可能性を知ること

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