2021/09/28

北陸新幹線開業で沸いた石川県金沢市。隣の福井県、そして石川県小松市では既に運営されていたが、ついに金沢市でもBNIがスタートした。“加賀百万石”とも言われてきた前田家の加賀藩。この言葉にちなんで名付けられたオンラインチャプターBNI Milioneオンライン(金沢)。2021年9月3日に発足イベントを迎え、当日は42名でスタートするが、9月28日現在すでに50名を突破。そのくらい勢いが生まれている。

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2021/09/21

近藤 正典さん
BNI コンダクト
(名古屋南)
カテゴリー:飲食店

1973年愛知県春日井市生まれ。2014年に前オーナーから店を買い取り独立。同時にBNIコンダクトに入会。2017年にディレクターコンサルタントに。カテゴリーは【肝料理専門店】

4月21日に長野県松本市にてBNI雷鳥、8月28日に長野市にてBNI竜胆がスタートした。両市のチャプターローンチ(グループの発足)を手掛けたのは、いくつものチャプターローンチに携わってきた、BNIコンダクトのメンバーである近藤正典さんだ。「今回立ち上がったのは、未開拓地域でのチャプターローンチプロジェクトととして仙台・長野・金沢・広島で同時に活動していたからだと思います。他の素晴らしいディレクターと刺激し合い、全国から手伝ってくれるメンバーがいたおかげです」。

ローンチ(発足)を手掛けるのは自身の経験から

近藤さんがディレクターを始めた頃、周囲では3年半も新しいチャプターが立ち上がっていなかった。ことごとく失敗し、気後れしている空気が漂っていたのだ。だからローンチをするためにディレクターになった近藤さんに、周囲は猛反対をする。「むしろ、そういう声が反動になって俄然やる気が出ていたんです」。最初のローンチはたった3ヵ月。以降、ほぼ失敗せずにローンチを手掛け続けている。「ディレクターは新しい出会いしかないんです。それにいろんな社長さんと出会える機会しかありません。これはメンバーだけでは味わえない醍醐味ですよ。それにチームビルディングを学ぶから、それが会社にも生きているんです」。

そこまでローンチにこだわったのは「BNIは飲食店の方に広めたいと思っているからなんです」。独立して居酒屋を始めたと同時にBNIに入会した。「本当に超貧乏だったんです。アパートも車も古く、人脈もない。でも、BNIに出席するなら見栄を張らないとって」。BNIを始めたからには、居酒屋を成長させなければいけない。店が終わって徹夜明けにチャプターミーティングに参加し、その日の昼も夜も働くという生活が続いた。入会半年後にはプレジデントに選ばれた際「時間に投資をしようと、誰よりも早く来て、誰よりも遅く会場を出ることを心掛け、1to1を連続してやっていたんです」。2期連続でプレジデントに選ばれ、招待したビジターは137人。その行動がリファーラルに結び付いていった。それを実感していたからだ。

ただ、無理がたたった。腸閉塞で緊急搬送。3週間の入院を余儀なくされる。「現場を抜けるのが本当に怖かったんです」。実は、この3週間が近藤さんを変えたといっても過言ではない。入院の間、社員たちが頑張って店を盛り上げていたのだ。「お客様から『近藤さんがいなくても大丈夫』と言われて。自分で現場に立ちすぎて、社員の伸びしろを摘んでいたんだ、って」。自分には次のステージがある、会社もBNIも。それに気付かせてくれたのだ。今では6店舗のマネジメントが主な仕事。新規開業も社員が率先して行なっているという。BNIも別の人に委任して裏方に回り、もう一つ上のステージ、ディレクターへの道がスタートしたのだ。そしてローンチの“プロフェッショナル”になった。

チャレンジの先に訪れるものとは?

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2021/09/14

BNI J-ONE
(多摩東)

中野 竜爾さん
1964年東京都武蔵野市生まれ。中野会計事務所代表税理士
カテゴリーは【税理士】から【税理士(法人税・相続税)】へ

宮崎 圭史さん
1967年東京都板橋区生まれ。シャインリンケージ株式会社。
カテゴリーは【生命保険】から【生命保険(資産運用)】へ

篠原 一廣さん
1974年埼玉県蓮田市生まれ。篠原総合法律事務所代表弁護士
カテゴリーは【弁護士】から【法人交通事故専門弁護士】へ

 

2006年、BNIが日本で初めて誕生した。そのときに生まれたBNI J-ONEは、16年経った今も会員数40名以上で活動している。立ち上げたときから今もメンバーでいる中野竜爾さん、宮崎圭史さん、篠原一廣さんにこの16年間の推移とBNIの真髄を聞いた。

人のつながりこそがBNIを大きくする

篠原「別の団体が開催する朝会で大野さんと出会ったんです。『私もこれから新しい朝会を立ち上げるんです』と聞き、参加してみようとは思いました。結構駆け出しの士業の人はこういう会には積極的ですよ。ただ、高額セミナーの一種じゃないだろうな、なんて警戒心はありましたけど(笑)」。

中野「忘れもしません。3月13日に電話があったんです。この時期は確定申告で繁忙期なんですが、この年だけ早く終わったんです。だからいつもは出ない電話に出ることになって。ピンポイントで電話をいただいていて、知り合いの士業の人もいたし、最初は“騙されるなら一緒に”という感じで思ってました(笑)」。

宮崎「既に入会を済ませていた士業の知り合いが勧めてくれたんです。それならばいいのかも、という思いはありました。最初は木曜日でスタートしたのですが、別の朝会が木曜日だったために金曜日に変えてほしい、ということで金曜日になったんです」。

三者三様ではあるが、一つ共通するのは“知っている人が勧めてくれた”ということ。

リーダーシップの一つの解がある

20人でスタートしたJ-ONEはしばらくメンバー数としては小康状態が続く。「少ないからこそ結束力はむしろ強くなっていたと思います(篠原さん)」。そこにターニングポイントが訪れる。渡辺直行さん(現:BNI横浜セントラル・エグゼクティブディレクター)のプレジデント就任だ。「とにかくBNIラブな人で、スーツからシャツ、パンツに至るまで、さらに車もバイクも全部BNIカラーで統一するくらいの人だったんです(中野さん)」。目標達成へのコミットメントがしっかりとしていて、メンバーを鼓舞し、ビジター数、メンバー数は50名へと増加していった。「かといって、強制はしないんです。自分でビジターも招待して、一所懸命取り組んでいたんです。その姿、その熱量に周りが応援しようという空気が生まれたんです(宮崎さん)」。渡辺さんは他人を鼓舞しながら自分も実践する。時には道化を演じ、真面目過ぎず、それでも達成への努力は怠らない。リーダーシップの一つの解がここにある。

何よりもBNI J-ONEのディレクターが、大野真徳ナショナルディレクターだったのだ。日本で一番BNIを知っている人が伝えるからこそ、理解度は高い。「最初からメンバーも運営面もレベルは高かったと思います(宮崎さん)」。全員がBNIに対して腑に落ちると、あとは習慣化していくだけ。「3年目からはBNI自体が日常と化して、夜型だった自分がBNIスタイルに合わせた生活になっていました(篠原さん)」。

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2021/09/07

林佳慶さん
BNI S1
(東京港中央)
カテゴリー:台湾ビジネスサポート

1988年東京都文京区生まれ。中学は台湾で、高校・大学はアメリカで学び、父をはじめとした友人が出資している外国人向けの不動産会社に就職。2018年に代表取締役に、翌年に社名を変更して『株式会社KAKEI』とする。BNIは2018年に入会。

台湾パイナップルをメンバーが救った

今ではスーパーでよく見かけるようになった台湾産パイナップル。この「台湾パイナップル」の日本への輸入に、BNIメンバーのグローバルネットワークが一役買っていることはあまり知られていない。

中国当局が2021年3月1日からの台湾パイナップルの輸入禁止を通達したのは実施の3日前だった。中台対立を背景とした中国政府による経済制裁の一種と考えられている。台湾パイナップルの輸出先の97%が中国であっただけに、生産農家は窮地に陥り、諸外国で支援の動きが始まった。

BNI S1の林佳さんは、台湾の生産農家のBNIメンバーが窮状に陥っていることを知り、このニュースをいち早く日本国内のBNIメンバーに伝えた。すると、そのうちの一人から「大阪の貿易業者を知っているから繋いでみる」との声が。そして、禁輸措置発表後初めて、台湾パイナップルの日本への輸入が実現した。行き場を失っていた2コンテナ分の台湾パイナップルが大阪の港に到着し、継続的に輸入することも決まった。

このストーリーはグローバルビジネスの成功例としての話ではない。BNIが実践している“ネットワーキング(人脈構築)”の賜物が仲間を救った、という話だ。単純に同じBNIメンバーだから、ではなく、これまで互いの国のメンバーが人脈の紹介をしようと動いているのを知っていたから、この困ったときに「何か手伝えることはないですか?」と、日本国内のメンバーが動いたのだ。台湾のパイナップル業者のメンバーのために台湾の人たちが動いたのは、そのメンバーが台湾の中でも高い貢献をしていたからだ。そして両国を繋いだのは、日本と台湾の間にルーツを持つ林さんの動きがあったからだ。

自分の可能性を閉じない13歳の決意

両親は台湾人。東京で生まれても、台湾人というアイデンティティは強く持っていた。だから中学生になったら台湾に渡ると決めていた。「といっても、躾の厳しい両親から離れたい、という思いも強かったんですが」。学校では日本語、家庭では台湾語、だから言葉の壁はない、はずだった。

しかし、台湾の中学校で使っていたのは北京語だったのだ。同じようにみえてもまったく違う。大いなる誤算。授業についていけない。日本での成績が良かった自分はもはやいない。かといって来てしまった以上、簡単に帰るわけにはいかない。「厳しかったんですが、離れてみて親の愛情がわかりました」。ただ、この13歳のときの境遇が人格を、そしてこの後の人生を決めていった。自分の可能性を決めつけない、卑下しない、ということだ。「別の人から見たら輝いているところがあるんです。だから自分の可能性を自分でブロックしない、そう決めて生きてきました」。

自分の強みを、可能性を知ること

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